The Spare Times  〜人生のスキマ時間を愉しむ〜

バリキャリワーキングマザー、アラフォーにして主婦デビュー。 突然訪れた人生の隙間時間をゆるりと楽しみつつ、次のステップを模索しながら迷走する毎日。最近お仕事再開+ときどきタロット占い師。

全部イリュージョンなら逆に守護霊だろうが神様だろうが何でもアリじゃない?と思った話

ダンナさまが買ってきたこの2冊を横取りして一気読み。 

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

 

 

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫)

錯覚する脳: 「おいしい」も「痛い」も幻想だった (ちくま文庫)

 

前野隆司氏が唱える「受動意識仮説」について書かれた本です。

受動意識仮説について詳しくリンク先に解説があるので、興味ある方は読んでみてください。

ものすごくざっくり要点をまとめると、私たちが「意志を持って」決断したり選択したり実行していることは、実は無意識化で脳が半自動的に処理したものを、後付けで「自分が決めてやったんだ」と錯覚しているに過ぎない、という説です。

 

1つの面白い実験結果がある。人が指を動かそうとするとき,脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と,筋肉を動かそうと指令する運動神経が,どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。結果は実に意外だった。筋肉を動かすための運動神経の指令は,心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し,それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。

この実験結果から,筆者は次のような新しい「意識」の見方を提案する。『人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。

 

この説を裏付ける証拠として提示されているのが、人がどのように外界を認知しているかというその仕組みです。例えば私たちは目という光センサーで光を察知し、それを電気信号に変えて神経から脳へ伝達し、脳で「ああ綺麗な夕焼けだな」といったようにセンサーで受け取ったものを視覚化・認知しているわけです。
人間は視覚と聴覚といった五感で外界を認知しているのに対し、イルカは超音波で世界を見ているし、視覚をほとんど持たずに触覚のみの世界に生きている下等動物もいます。

そして人間であっても、私が見ている目の前のりんごの赤が、隣でそれを見ている人と全く同じに見えているかどうかは分からないし、りんごが圧倒的な質感を伴って艶やかに赤く美味しそうに見えたとしてもそれは私たちの脳が「そのように世界を捉える」と判断した結果であり、イリュージョンなんだ、ということが、2冊の本を通じてずっと語られているわけです。

 

これを読んで私は

目に見えているものが脳の作り出すイリュージョンかもしれないんだったら
守護霊だろうが神様だろうが同じように脳が作り出すイリュージョンとして存在しても何もおかしいことはないんじゃない?

と思って、一人で膝打って「ガッテン!」とか叫びたい気分になりました。

 

今まで自分がいわゆる霊媒体質だと言われたり、自分でももしかして見えるのかもしれないと思ってみたりしながらも半信半疑で、やっぱり非科学的なことを受け入れられないでいたんだけど。

実際に霊魂が存在するかとか守護霊がいるから見えるというのではなく、世界の認知の仕方として視覚や聴覚のように霊能力みたいなものがあってもおかしくないんじゃないかと、ちょっと飛躍しつつも妙に納得したわけです。

だってイリュージョンなんだし。
だってイルカは超音波で世界を見てるわけだし。
だから私がどんな風に世界を見ていてもおかしくないじゃないか!

 

 

というわけでこの2冊を読んだおかげで私の「見えているのかもしれない疑惑」に対するモヤモヤと、ある種の気後れするような気持ちがかなり和らぎましたヨ。