【#14 読書三昧】『偶有性幸福論。』江原啓之、茂木健一郎
江原さんって言えば私の中では「オーラの泉」のイメージ。
(改めて調べたら放送されていたのは2005〜2009年。7年以上イメージが更新されていない…)
美輪明宏さんとの強烈なコンビで繰り広げられる”視えてる人”トークがぶっ飛びすぎてて、見ていて豪快に置いてけぼりにされる感じ。
そして随分丸くなられて、さぞかし美味しいモノ食べてるんだろうなぁなんて邪推して「スピリチュアルを追求する者であればストイックに生きろよ!」という身勝手で押し付けがましい考えもあって、一方的に「苦手な人」にジャンル分けしていました。
でもスピリチュアルをいろいろ調べてると、やっぱり避けて通れない人なのですね。
それくらい「スピリチュアル」という言葉が世に知られるきっかけにもなった人だし、「視える人」がカミングアウトできる空気を作ったのもこの方なんだなと。
そして、”視える”とか”スピリチュアル”を科学的にも説明つけたい、純スピリチュアルに振り切れない私としては脳科学者である茂木健一郎さんと江原さんの対談っていうのは人選だけで興味を持って行かれるわけです。
というわけで手に取ったこの一冊。
これが、スピリチュアルの科学性云々は脇に置いておいていいじゃないか!と思うような名言だらけで唸りました。
今日は脈絡なく、個人的に「おおぉっ」と唸らされた部分をランダムに引用して備忘録として書いていますので、総合的なレビューが知りたい方はAmazonのレビューをぜひご覧くださいませ。
■ 生きることの意味
自殺しようとする人の中には、「私は生きていく価値がありません」って、こういうこと言う人が多いんですね。けれども、本来、価値があるから生きるんじゃなくて、生き抜くことに価値があるんですね。
「本来、価値があるから生きるんじゃなくて、生き抜くことに価値があるんですね。」
読んでいて一番深く頷いてしまった一文です。
折しもオリンピック開催中で、「参加することに意義がある」っていう言葉を思い浮かべました。この「参加することに意義がある」っていうのは「参加するからにはベストを尽くし、最大限の結果を出すからこそ意味がある」ということとセットだと思うのね。
生きていることそれ自体にもちろん意義があるんだけど、精一杯生き抜くことこそに意味があるということ。
だからただ漫然と生きているのが価値がないとは言わないけれど、せっかくこの世に生を受けたからには精一杯頑張ってみたらいいんじゃないかと、そして頑張って生きること意味を見いだせれば十分じゃないかと思います。
■ モラルでも善悪でもなく「美醜」
それこそ地べたに、駅でもどこでもべったり座ったりして、大人から見るとそんなの汚いからよしなさいとかいって、すぐそういうことで言うけれど、でも説明できないんですよ。何が説明できないか。美醜の区別。子どもたちは「何で草原で座るのはよくて、ここはいけないの?」って「外に変わりないじゃない 。同じ」って。でもそれを大人は何が違うのかっていう美醜の区別って言えないんですね。だから「またへ理屈言って」って言って終わっちゃうんです。
「モラル」「善悪」ではなく「美醜」っていうのが三輪さんとノリノリでトークしてた江原さんっぽい。
そしてあえてこれを「美醜」というセンスの問題として捉えるのが逆に本質をついているようにも思う。
■ 神様という視点
神道においての神の定義は何かと言うと、”恐れ多く賢きもの”なんです。
〜中略〜
それこそ今の時代、後ろめたいとか、お天道様の前に顔を出せないとか、歩けないとか、そういうふうな言葉がなくなっていってしまっているんです。ご先祖様も含めて”誰かが見ている”という発想がない。
〜中略〜
それは今は神様が変わっちゃったから……。何に変わったか。三種の神器が変わったときから、神は「力」になったんです。つまり、自分よりも立場の強い人や、点数を付ける人が神様になった。だから、その人の前ではいい子にしてた方が得で、見てないところでは、何をしてもいいと考えるようになったんです。
子どものお受験でトリック系の学校の説明会に参加したときに、校長先生が「神様と自分だけの対話の時間を持つということ、子供達が心に静かな自省の時間を持つということを、私たちはとても大切だと考えています」というようなことを仰っていたことを思い出しました。
「神様が見てるから」って、実際に神様という存在がこの宇宙にいて自分のことを見てるかどうかということではなくて、そういう視点を自分の中に持てるかどうかということなんだなと思います。
自分を客観視すること。他者への想像力を働かせること。
そのことがこの複雑化した世の中でより良い人生を生きることにつながるということというのはとても共感できます。
■ 私の堕落した子育てに喝を入れられた言葉
ただ、私はやっぱり想像力を持つにも、経験が必要だと思うんです。特に今の若い子どもさんたちにおいては、経験が大切。時には転ばせることも必要だとも思うんですね。でも、今の親御さんたちってみんな横着になっちゃっているんですよ。どういう横着というと、それこそ何でもかんでもやってあげちゃうんですよ。これね世間ではよく「過保護」って言うけど違います。横着なんです。
ひー、耳が痛い…!💦
時間がない時、いや、時間がある時でさえも、その後に起こる面倒に想像を巡らせるとげんなりしてしまって先回りして危険を回避したり、我慢しきれなくなって子どもの片付けを私がやってしまったり…身に覚えがありすぎます!!💦💦💦
だから本当にね、子ども自身に片づけをさせようと思ったら、一緒にやるべきなんです。でも、一緒にやるのは面倒くさいんですよ。時間も掛かるし。でもその横着というのが、実は根底にあるということを忘れてはいけないと思うんですね。 〜略〜 子どもと共にやっていけば子どもも覚えるんです。
ぐうの音も出ません。
でもこの「先回りしてやる」「結局親がやる」っていうのが「横着」っていうのはすごく腹落ちしました。なのでこれ読んで以来面倒くさがらずになるべく一緒にやるっていうのは心がけるようになりました。
恐るべし、江原さん…
茂木さんも呼応して次のようなことを言っています。
それから、なによりも大事なことは、目と目を合わせる。目と目を合わせただけで、脳の中のドーパミンという物質が放出されることが分かってるんです。このドーパミンというのは、うれしいときに出る物質なんです。目と目を合わせただけで笑みがこぼれる。これが子どもってものなんですよ。それがね、子どもが「ママ」って呼んでいるのに、「忙しいから、あっち行ってなさい」とか言って目を合わせない。これだと子どもは安全基地を失いますよね。
あわわわ、これから返事するときは意識して目を合わせます!
■ ”伝わる”言葉
公演やTV出演、執筆を重ねている人は自分の思いや主張を「伝わる言葉」にきっちり落とし込めていて、伝えたい相手も多様なので言い方のバリエーションも豊か。
私も仕事でいろんな部署や会社との調整のために、言葉を変え、見せ方を変えてプレゼンを作ったりしていました。そうやっていろんな角度から一つのことを繰り返し見るのは、他の誰よりも自分のためになるんですよね。自分がどんどん腹落ちしていくし、「もっとこうすればいいかも」ってアイディアも湧くし、アイディアをもらうことも多い。自分とはまったく違うポイントで腹落ちする人を見たりすると、それもすごく勉強になる。
そして、話す言葉がどんどん”自分の言葉”になっていく。
自分の言葉で喋れる人は強いです。
■ 実践者として
霊能力だけじゃなく学問でも武道でもなんでも、現実に役に立てなくては意味がないということを江原さんは言っていて、実践者としていかに世の中に還元していくかということをとても意識している点には共感しました。
■ 心霊現象とは優遇性に「意思」を感じるかどうか
最後に江原さんと茂木さんの対談があるのですが、その中で語られていたこの部分。
江原 というか、また言葉を替えれば、私が重んずる心霊現象は霊が出たうんぬんよりも、偶有性における心霊現象なんですよ。
茂木 おお、そうなんですか。
江原 うん。要するに偶有性の中に神秘を感じるかどうかなんですよ。
茂木 それは僕は感じますよ。
江原 そこでまた別の意図、意思を感じるかどうかなんです。
茂木 ああ、それは大事だ。なるほど。
たとえば科学は「宇宙の始まりはビッグバンというのがあって…」と、事実を対象としている。そして、意思を持っているのは生物のみという前提のもとに全てを組み立てています。
それに対して「ビッグバンというのは現象としてはそうだけど、そこに神様の意思があるんだよ」というふうに生物以外の超越した存在を想定して、その意思が働いていると考えるのがスピリチュアリズム、というふうに定義しているんだ、というのが江原さんの論。
これはすごく面白くて、実際に神様がいるかどうかではなくて、そこに神様の存在を感じるかどうかというところにスピリチュアリズムの定義を置いているということ。これで行くと神様とか霊魂の存在を証明する必要はなくて、それを信じるかどうか、世界をどう認知するかどうかというだけの違いですよと。
公演と対談を収めた本なのでするーっと小一時間程度で読めてしまったのですが、思わぬめっけもんでした。
読書三昧は妄想ウィッシュリストの#14