自立するには依存が必要
確かお天気お姉さんとして活躍していた河合薫さんが、気がつけば健康社会学の人として日経に連載を持っていた。
同じ女性として私とは異なる道を切り開いている河合さんの視点に違和感を覚えることもあるけれど、フェアであろうとする立ち向かう姿勢にいつも共感しながら記事を読んでいます。
最近の記事の中で印象に残ったのがこちら。
河合さんが刑務所を訪問し、受刑者に対してキャリアについての講義をした時に見聞きし、感じたことをまとめた記事です。
勝手な推測ですが、河合さんは「私たちは皆、放っておくと偏見を持ってしまう生き物だし、体験していないことを当事者の身になりきって考えられるほど想像力豊かでもない」と思っている気がします。だからこそ注意深く自分自身の眼差しに偏見が混じっていないか、想像力が至っていない対象がいないかどうか、自分の視点や考え方をセルフチェックして、足りない視点や考え方は積極的に他者の力を借りて補うようにしているように感じます。
そんな河合さんが、自分自身でも
「私は、受刑者の方たちに面と向き合ったときに、無意識に「私たちとは違う」と偏見をもち、無意識に「特別な人たち」と区別した。」
と素直に認めるほど、世間から偏見の目を向けられているであろう受刑者たち。
彼らはせっかく刑務所を出ても居場所を見つけられず、再び犯罪を犯してしまう人が非常に多いそうです。再犯率はなんと47%!
一般刑法犯全体の再犯率は平成9年以降、一貫して上昇を続け、平成26年には過去最高の47.1%に達している(平成27年版「犯罪白書」)。また、仕事に就いている人の再犯率が7.6%であるのに対し、無職者は28.1%と4倍にもなる。また、刑務所に戻る人の7割超が無職であることもわかっている(平成21~25年度「保護統計年報」)。
犯罪を犯した人はもともとそういう人だから、出所しても再び犯罪を犯すのだ、と言ってしまうのは簡単ですが、実際はそれだけでは済まされない現実がある、と河合さんは指摘しています。
出所しても住所もなく、身寄りもない場合は職につくことも難しい。住所不定無職、ということになってしばらく踏ん張ってみたところで、社会から孤立して、そのうちに心も折れてしまう。
刑務官の
「特に正月が近づくと、アンパン一個盗んで、塀の中に戻ってくる。なんとか生活できるヤツも多いのに、戻ってきちゃう。居場所を求め刑務所に戻る。これも、現実なんです」
という言葉が紹介されているけれど、本当に、これが現実なんだろうと思う。
高齢化が進み、介護が必要だったり認知症を発症する人も多く、一度出所しても軽微な犯罪を犯して戻ってきてしまう。そこにあるのは”一回くらいつまずいても、再チャレンジの出来る社会にしようよ!と誰もが思っているのに、「自立」を許さない社会”。
で、私がこの記事で一番共感した言葉が、記事の最後の方にあります。パワフルな言葉で綴られていて感銘を受けたので、そのまま引用。
そもそも「自立」の反対は「依存」ではない。社会的動物である人は、依存できる相手がいるからこそ、自立できる。「依存」の先に自立は存在する。
信頼できる他者との出会いで、踏ん張る力が引き出される。
手を差し伸べてくれる人がいるからこそ、困難を乗り越える強さが磨かれる。
悲しみや困難を分かち合ってくれる他者がいるからこそ、未来に光りが灯る。なのに、自立できている人たちには、そのことに気付かない。だから、「依存する人、自立できない人=弱い人」と決めつけ、「やっぱりダメな人」と排除する。
社会的動物である人は、依存できる相手がいるからこそ、自立できる。
「依存」の先に自立は存在する。
闇雲に自己責任を叫ぶ今の風潮への警鐘とも取れる、この言葉。
読んだ時、ハッとされられた。
ワーキングマザーとしてバリバリやれていたのだって、理解ある家族や職場、親の代わりに保育を担ってくれる保育園、いざという時に快くサポートしてくれる両親など本当に多くの人に依存していたからこそできていたことだった。
保育サービスにはお金を払っていたけれど、お金を払ったから依存じゃないとも言い切れないなとも思った。そしてそれに払うお金は、依存した先の自立で手に入れたお給料だったりする。
私にもきっとおごりがあるんだろうと思う。
私も完全に相手の立場に立って考えるなんてことはできないけれど、自分の想像力に限界があり、放っておくと自分視点でしか世の中を見なくなってしまうんだということは、肝に銘じておきたいなと思います。