The Spare Times  〜人生のスキマ時間を愉しむ〜

バリキャリワーキングマザー、アラフォーにして主婦デビュー。 突然訪れた人生の隙間時間をゆるりと楽しみつつ、次のステップを模索しながら迷走する毎日。最近お仕事再開+ときどきタロット占い師。

ボールを受け取る側と投げる側 〜コミュニケーションにおける責任はどちらにある?

少し前に起きた相模原の障碍者施設で起きた痛ましい殺傷事件。
これに対して爆笑問題の太田さんがラジオ番組でコメントしていた、というブログ記事を読んで、そこに書き起こされていた言葉にハッとさせられました。

numbers2007.blog123.fc2.com

ちょっと長いですが引用させていただくと、こんなやり取りがされています。

太田光:犯人の彼が…バカ野郎ですよ。それが言ってることがあって。要は、「意思の疎通ができない人間が、生きてても意味がない」って言ってるんです。

田中裕二:うん。

太田光:俺はね、それに凄く引っかかってるんです、いまだに。

田中裕二:うん。

太田光:コミュニケーションですよね。それで、僕は「意思の疎通ができないのはどっちだ?」って思ってるわけ。施設にいる人たちは、たしかに普通の言葉を喋れないかもしれない。色んな表現ができないかもしれない。

田中裕二:うん。

太田光:でも、彼らの周りには、彼らを大切に思って、彼らが生きていてくれなかったら困るって人、たくさんいて。彼らが「ウーッ」って言ったときに、「これは何を表現してるんだろうか」って、一生懸命受け止めようとしてる。つまり、小林秀雄の言うところの感受性ですよね。

 

ここで太田さんは、
コミュニケーションは受け取る側の感受性の問題だ
と言っているわけです。
この後に、泣くしかできない赤ちゃんに対して母親がどのように感受性を目一杯使ってメッセージを読み取ろうとしているかという例が出てくるんだけど、要はそういうこと。
メッセージを受け取る側が、とにかく相手の立場に立って想像力を働かせ、メッセージを受け取る努力をすること。

 

一方、私はコミュニケーションはボールを投げる側により責任があると思ってきました。ビジネスのシーンでは特に。
私がそう思うに至ったのには、きっかけがありました。

 

私の今の仕事のスタイルや考え方を徹底的に学ばせてもらったM社で、私のハイヤリング・マネージャー(採用担当マネージャー)だった恩師の元上司Yさんの言葉で、忘れられない言葉があります。

 

コミュニケーションはキャッチボールです。
このキャッチボールにおいて、ボールを相手の手の中に送り届ける責任は100%、ボールを投げる側にあります。

 

二人目の産休に入られる前に部署のメンバーを集めて行われた壮行会でのスピーチで、彼女が言った言葉です。

 

これを聞いた当初、私は20代半ば。
ようやく仕事を覚えてきて一人で回せることが増えてきたけれど、利害が対決するような場面ではまだまだ思うようには進められないし、誰を巻き込んだら良いかは先輩方にアドバイスいただかないと判断つきませんでした。

 

でね、私は

んなわけないじゃん!無理だよ!💦
ボールを受け取る側だって少しはキャッチする努力をしてくれなくちゃ!💢

と思っていたのです。

 

とても優秀だった彼女にそんな風に言われて立つ瀬ない気持ちになったし、頑張っているつもりでも空回りしてしまうことも多かった当時の苛立ちを見透かされたような気分にもなりました。

なので私はしばらくの間この言葉を受け取ることができませんでした。

 

 

それが変わったのは、子供が生まれて復帰してから。

私は第一子の妊娠中に会社都合で退職していたので、復帰と言っても転職活動をして知らない職場でゼロからのスタートでした。しかも、その会社の目玉商品であり、ブランド認知度80%を超える有名ソフトウェアのプロダクトマネージャーとして復帰。開発、営業、ビジネス開発、広報、宣伝、製造、物流、販売会社など、社内外のパートナーやステークホルダーは100名を優に超え、それぞれに細かく異なる利害を調整しながら製品をリリースするというのは本当に骨の折れる仕事でした。
しかも私は時短でこそなかったものの、18時には退社しなくてはいけないワーキングマザー。子供が寝た後に家で仕事を再開したとしても、圧倒的に時間が足りません。

 

そんな中でたくさんのステークホルダーの異なる利害の調整をしていくには、コミュニケーションしかありません。製品をリリースできなかったり、納得いく品質のものを出せなかったら私の責任です。

 

スケジュールを守りながら、ベストのものを世に出す。
私はどうしても達成したいこの目標のために、とにかく手を替え品を替え、相手の手の中にボールが渡るように球を投げ続けました。

打ち合わせ、メール、電話、会議、タバコ部屋、ランチ、ふらりとデスクに立ち寄った風な立ち話、手書きのメモ…
あらゆる手段を使い、相手に響く言葉を選び、相手とWin-Winになる落とし所を探っては提案し、AさんがだめならBさんにアタックし…

 

そこで、ふとYさんの言葉を思い出したのです。

そして、「ああ、確かにコミュニケーションというキャッチボールでボールを相手の手の中に投げ込むのは、投げる側の責任だな」とものすごく腑に落ちたのです。

 

これは言い換えれば、よりその物事に責任ある人、あるいはそれを成し遂げたいと思っている人に責任があるということでもあります。

 

相手はあなたと同じほどの情熱を持っていないかもしれないし、失敗したからといって責任を取らなくてはいけない立場にはいないかもしれない。
でもあなたは相手に動いてもらわないと困る。

そんなとき、より多くの熱量を持った人は必ずボールを投げる立場にいるはずなのです。であれば、投げる側に100%責任があるというのもしっくりきます。

だって、それを成し遂げたいのは他でもないあなただから。

 

実際にはボールを投げる側にも受け取る側にも、それぞれに努力する必要があることがほとんどだと思います。
感受性を持って相手の話を一所懸命聞く、というのはすなわちボールを受け取る側により「受け取りたい理由」があるということもあるでしょう。

いずれにせよ、コミュニケーションは一人では成立せず、常に相手を必要とします。

このコミュニケーションでより熱量が多いのはどちらだろう?
ボールを持っているのはどちらだろう?

そんな風に常に考えながら、投げたり、受け取ったりを上手にできるようになりたいなと思います。