The Spare Times  〜人生のスキマ時間を愉しむ〜

バリキャリワーキングマザー、アラフォーにして主婦デビュー。 突然訪れた人生の隙間時間をゆるりと楽しみつつ、次のステップを模索しながら迷走する毎日。最近お仕事再開+ときどきタロット占い師。

【#14 読書三昧】ピンクの可憐で深い闇〜『Think Pink 女の子は本当にピンクが好きなのか』堀越英美

うちの娘たちは2人とも、育児書のセオリー通り2歳を少し過ぎた頃からイヤイヤ期=自我の芽生えを経験し、同時にピンク星人に変身した

やまなや 復刻ブルマァクミニ怪獣シリーズ - ザラブ星人(ピンク)Photo by Flickr

 

 

それは見事な変身っぷりだった。

 

洋服を選ばせればたちまち全身ピンクの林家パー子に。
おもちゃはキラキラハートやリボンに埋め尽くされたピンク色をしていなければ見向きもしない。
クレヨンはピンク色だけがあっというまにチビてしまい、描かれる絵は全てがピンクの桃色世界。
おひとつどうぞと差し出される飴も選ぶのはもちろんピンク色。基準は味じゃない。
コップやお皿などの食器やバスタオルなど日常的に使うものまで、家の中は次々とピンクに侵略されていった。

女の子の赤ちゃんのものは淡いピンクが多いので避けて通ることはできない色ではあるものの、ピンク星人に変身するまではベージュやグレーやネイビーといったごくベーシックカラーを中心に割と偏りなくいろんな色を与えてきたつもりで、「女の子だからピンクね」なんて教えたことは一度もなかったのに、気づいたら「ピンクじゃなきゃ嫌!」となっていた。

 

これは一体なんなんだ?!

 

しかも、5歳から6歳、ちょうど小学校進学が射程距離に見えてきたくらいからこれまた唐突にピンクを選ばなくなる時期がやってくる。
と同時にあんなに大好きだったプリキュアへの興味も急激に薄れていく。

 

私はといえば、幼少の頃はピンクが好きだった記憶はあるが、思春期以降かなり長い間「ピンクは私には似合わない避けて通るべき色」と思っていた。素直にピンク色を選べるようになったのは社会人になって仕事もプライベートも一定の経験を積み、ある程度自分に自信を持てるようになってからだった。

正確に言うと、それまでずっと持て余していた「自分が女性であること」をすんなりと受け入れられるようになったらピンク色も受け入れられるようになった。

 

子供たちを見ていても、自分の経験を振り返ってみても、ピンクはとても複雑な色に思える。
そして単純に、なぜ子供達が突然ピンク星人に変身してしまうのかがとても不思議だった。

 

この本はそんなピンクにまつわるモヤモヤを、軽快なテンポの語り口でバッサバッサとなぎ払ってくれた。

女の子は本当にピンクが好きなのか (ele-king books)

女の子は本当にピンクが好きなのか (ele-king books)

 

 美味しいお酒を飲みながら、とても頭の良い女友達が自身の経験や膨大な読書量に裏付けされた知識とデータを惜しげなくテーブルに広げて、ユーモアを交えてピンクについて語りまくるのをワクワクしながら聞いている感じ。

章立てもよく考えられているし、参照される研究や事例も新しい。時折挟み込まれる著者自身のエピソードも、同じ娘を持つ私的にはあるある満載でものすごく共感出来る。

 

本の中ではまず最初に欧米、そして日本でピンクがいつからどんな風に女の子の色になったのか、ピンクという色が様々な意味を勝手に持たされてきたその歴史が紐解かれる。もともと女の子の色という役割を持っていなかったピンクが愛されるべき存在の女の子を象徴する色となり、一転して女性を女性性の中に押し込める忌々しい色として拒絶され、一巡して再び女の子の世界がピンクに溢れる歴史を読むだけで、ピンクの持つ文脈がいかに複雑かが理解できる。

家庭的な役割や「ピンクカラー」と称される労働社会における低賃金で補助的な仕事を主に扱うピンク色のおもちゃたちが、女の子が大人になった時も「ピンクの世界」に自らを閉じ込めてしまう結果を生んでいるという女児玩具におけるピンク問題。そしてそれに対抗して登場している女児向け(という区分自体が批判の対象になっているらしいけど)理系玩具ブームのムーブメントも、興味深く羨ましい。
日本でこの視点がいかに抜け落ちているかということに気づかされた。日本では論点にすらなっていない!

 

これ日本で立ち上げたら面白いだろうなぁ。


We're GoldieBlox!

 

 

私は別にフェミニストではないけれど、ワーキングマザーとして日々を送っているとどうしたって自分の女性性を意識せずにはいられない。でも声高に違和感を唱えれば「それみろこれだからフェミは」となるのが目に見えているし、「仕事もプライベートも充実なキラキラワーママ」を演じるのはしんどすぎる。

それにしんどいのはワーキングマザーだけじゃない。
男性だって型にはめられる息苦しさを感じている。(本の中でも最終章でこのことに触れられている。語られる対象が「可愛いものが好きな男(の子)」であっていわゆる働く男性ではないのが私にとっては新しい視点で面白かった。)

 

本を読んでモヤモヤが解決されるわけではないけれど、モヤモヤの正体を少しはつかめた気がする。
正体をつかめば傾向と対策を練ってアクションを起こすことも可能だ。

 

 

女児を持つ親にも、フェミニスト的なことに興味がある人も、アメリカにおける男女児童の平等性を求める最新のムーブメントに興味がある人も本当にオススメの一冊。

久々に早く続きが読みたくて子供をいつもより30分早く寝かしつけてしまう本に出会った!

 

 

 

読書三昧は妄想ウィッシュリストの14番。
今のところ積ん読リストばかりが積み上がっているところ。

thesparetimes.hatenablog.com

 

大人になる、自由になる

不自由な子どもたち、自由な大人たちで、子どもってものすごく不自由な生き物だと書いたのだけれど、ではその不自由な存在である子どもたちが自由を手に入れていく過程をサポートする上で、親である私は何ができるのかなぁと考えたりします。


Portrait of Lotte, 0 to 14 years in 4 min.

 

特にここ1年は1号の小学校受験にチャレンジしてみたり、実際に小学校に上がって教育の現場に触れる機会があったりして、より差し迫った課題としてこのことが感じられてきています。

気がつくとあっという間に大きくなっちゃうんだもん、子供。

 

 

自由な大人になるためには、自分が自由な存在であることを自覚している必要があります。

逆に、一定の価値観に縛られたりしちゃうと、せっかく自由なはずの存在を自ら檻の中に閉じ込めて不自由にしてしまう。そして他人も檻に閉じ込めようとしてしまう。

 

とすると、鍵は多様な価値観に触れることかな、と思うのです。

 

私は幼稚園に入る前に父の駐在でオーストラリアにいて、なんとなーくですが「この世界には見た目が違って、英語という未知の言葉を話す人がいるらしい」というのを感じていました。

小学校高学年から中学までアメリカで過ごして、多様な人種が集う学校生活を通じて日本という国を外から眺める機会を得ると同時に、いろんな人種が集う現地の学校で強烈に日本人である自分のアイデンティティを意識させられたりもしました。

高校は帰国子女ばっかり集まる少し変わった学校で、人生のほとんどを国外で過ごした人もいれば海外に出たこともない人もいたりして、進学先も日本の大学に行く人もいるけれど海外に出て行く人もたくさんいて、進路は人の数だけあるんだなーなんて思ったりしました。

社会人になっても世界中に展開している外資系のIT企業で働いた時には、猛烈なインドなまりで弾丸トークするイギリス拠点の同僚とか、会社に赤ちゃん連れて出勤してるパパ社員とか、働くっていうことに対する既成概念を吹っ飛ばしてくれるような出会いを山のように経験させてもらいました。

 

そうやって色々な生きた価値観に触れることで、私の自由度はぐんと上がったと思っています。

だからやっぱり、出来るだけ振り幅の広い出会いや経験を通じて、生きた多様な価値観に触れさせたいな、というのが漠然と思い描いている教育方針。

 

 

ただ、いろんな価値観に触れた時に「あの人は特別だから」と例外扱いして価値観を受け入れることを拒否してしまったり、「どうせ自分にはできないから」と拗ねてしまうと、自由を手にいれるどころかどんどん檻を狭めてしまうことになります。

なので、未知の価値観に出会った時に「あれもありなんだ」と受け止めて、受け入れることのできる心のあり方というのも日頃から鍛えておきたいなぁ、と思います。

 

 

生の価値観に触れる以外に世界を広げてくれるとても有効なツールとして、読書があります。

 

私は中学生の時には年間500冊の本を読んでいた活字中毒で、とにかく片時も本を手放さずに家にある活字を片っ端から読みあさっていた時期がありました。

児童向けの岩波少年少女文庫みたいなものから、父の書斎にあったビジネス書、たまに日本から送られてくる週刊誌や、ニューヨークから数日遅れで届く日経新聞、おばあちゃんに送ってもらっていた月刊のマンガ雑誌は欄外に小さく印刷されているひとことコラムみたいなものまで漏らさず読んでたっけなぁ…

とにかく日本語に飢えていた事もあって、日本語が書いてあるものなら内容を選ばずに片っ端から読んでいた記憶があります。

500冊の内訳は圧倒的に赤川次郎と当時はまっていたティーンズ向けのX文庫(折原みととか!懐かしい!)ではあったけれど、とはいえこの圧倒的な読書量はそれなりの振り幅を伴っていたので様々な価値観や知識や経験を活字を通して追体験させてくれたのでした。

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実際に体験できることには限りがあるけれど、本が連れて行ってくれる世界はより広く、実際には存在しない世界にだって行くことができます。

実際の体験が価値観の理解に深さをあたえてくれるものだとしたら、活字を通して出会う世界は価値観をぐんと広げてくれるもの。

 

 

自由な大人になるために、子供たちにはぜひ実際の体験や読書や、もしかしてこれからはインターネットなんかを通じて色々な価値観に出会って欲しいなぁと思います。

そしていろんな価値観に出会っていく子供たちを後押しできるように、自分自身ももっともっといろんな出会いをしていくぞー!

不自由な子供たち、自由な大人たち

Pulling funny faceswww.flickr.com

 

子育てをしていて思うのが

 

子供ってなんて不自由な存在何だろう

 

ということ。

 

例えば我が家の1号(6歳児)は今年小学生になったばかりですが、
彼女は本が大好きだけど、漢字が読めないので読める本が限られてしまっています。
親の許可と同伴なしに一人で好きに遊びに行くことができません。
なぜ学校で勉強することが大事なのかが分からないので、遊びたくても眠くても宿題をしなくちゃいけないというのは理不尽以外の何物でもないように感じられます。

 

2号(3歳児)は、保育園のルールで平日は大好きなスカートが履けません。
少し高いところにかけてあるタオルに手が届かないので、お風呂上りにはお母さんにタオルを取ってもらわないといつまでたっても全身びしょ濡れのままです。
一人では不安で夜眠りにつくこともできません。
夜ご飯の前にお菓子が食べたいのを親に止められると、悲しくて悲しくて号泣してしまいます。

 

赤ちゃんの頃はさらに不自由極まりない世界に生きています。

まず、自分自身の意思で思うように体を動かすことができません。
ハイハイできるようになるまでは、移動したかったら誰かに運んでもらう以外に選択肢がありません。
オシッコもウンチも垂れ流すだけで、オムツがムレても変えてもらうのを待つしかありません。
お腹が空いたり、お母さんの姿が見えなくなるだけで不安になり、不安であるという自分の気持ちを処理することができずにひたすら泣くという唯一のコミュニケーション手段に頼ります。

 

めっちゃ不自由! 

 

もし大人の意思を持ったまま赤ちゃんの体に閉じ込められたとしたら、おそらく発狂するんじゃないかと思うんですよね・・・

 

少し大きくなっても、例えばおやつに大好きなアイスクリームが食べられないというだけで悲しくて悲しくて仕方なくて号泣しちゃったりします。
世界は知らないことだらけで少しでも日常のルーチンから離れてしまうと、次に何が起こるのか予測して行動することは極めて困難です。
語彙も限られるし、自分の気持ちや置かれている状況を正しく理解することも難しいので、ましてやそれを言語化して相手に伝えるなんていうことは相当訓練を積まないとできるようになりません。

 

大人になってそんなに感情に振り回されたり、毎日新しいことだらけだったり、自分の気持ちや要求を相手にきちんと伝えられなかったとしたら…
疲れ果ててしまって日常生活を送ることなんてできないんじゃないかなぁ。

 

 

大人になるって
できることが増えること。
知っていることや経験したことのあることが増えること。
感情をコントロールできるようになること。
行先を予測して備えることができるようになること。

自分で決めて、自分で行動できるようになること。

 

 

そう、大人になるって、自分で決めて自分で行動できるようになること。

大人になるというのは、自由を手に入れていくってこと。

 

 

私たち大人は、手に入れた自由を思う存分に楽しまないともったいない。
それに伴う責任を自分自身で受け止めながら。

子供達には成長の過程で自由を勝ち取り、そうやって手に入れた自由を謳歌できる人間になってほしいなぁ、なんて思ったのでした。